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【東日本大震災】5月11日。2ヶ月後のその日、石巻・女川などを歩いてきました



“2ヶ月後”の宮城県・女川町 ( 11, May 2011 Onagawa-cho, Miyagi, Japan )

あの日からちょうど 2 ヶ月経った 5 月 11 日、宮城県の石巻市・女川町を歩いてきました。
14時46分、女川町では亡くなった方を悼む黙祷のサイレンが悲しげに鳴り響いてきました。

車から見える女川の町。戦場という表現以外、例える言葉がありませんでした。

石巻市立女子高等学校の校長室を訪問。今回の津波被害から2ヶ月間のことを、伺いました。
当日のこと。最初の3日間のこと。2週間後のこと。1ヶ月後のこと。そして5月7日に行われた、入学式のことを。

生徒と地域のことを一番に想う、素晴らしい校長先生でした。彼も自宅が流され(水産業を営む家系だったそうですが、港の仕事場もご自宅も流され全壊、自宅敷地内には遺体が7体も流れて着いていたそうです)校長室で寝泊りをしながら、対応に当たっていたとのことでした。

15分程度の挨拶のつもりが、1時間半近くも話し込んでしまいました。

姉妹校である石巻女子商業高等学校は津波の直撃に遭い、高台にあったこの石巻女子高校は被害をまぬがれました。高台といっても、ほんの数百メートルの距離差。標高の数メートルの違いは、0と100の違いを生み出しました。普通の街並みだと思って歩いていると、ふと見上げたその先に、何もないエリアが目の前に広がっていることに気づき、血の気が引きます。

ここでは被害に遭った女子商業高校の生徒を全面的に引き受け、1つの校舎で2つの高校が共に歩みはじめています。地域から、心から愛されている高校でした。緊急事態、そして復興に向けてのプロセスの中で、リーダーシップを取ったのが校長である彼でした。

「どうしようもないとき、それでも諦めたら終わりなんだ。こんなとき、我々は助け合わなければいけない。人間本来が持っている力を結集して、取り組まなければいけない課題が、いま山ほどある。みんな一人ひとりがそれを分かっていて、動こうとしている。大人よりも子どもたちのほうが、よく分かっていることがあるんだ。大人は余計なことを考えすぎることがあるけど、子どもたちは心配がいらないほど、よくやってくれている。子どもたちから学ぶことも多かった。」

「震災のあと、生徒たちに伝えた。まずは、君たち自身の家族を大事にしなさい。自分と家族の身を守りなさい。その合間に、すこしずつ勉強を続けなさい。そして自分にできることがあると思ったら、地域のために自分のできることをやりなさい。」

この1時間30分に聴いた彼の話は、僕の人生を少し変えた。

女川町では広い範囲で被害を受けており、もはや人の手ではどうにもできない。重機による町の復旧が始まっていました。

ふと足元に目をやると、腐った魚やヘドロが。2ヶ月経った今でも、その異臭は消えません。

匂いとか、少し違う空気とか、夜の暗さといったものがそこにありました。それは、新聞やテレビ、インターネットでは伝えきれません。2ヶ月経った今だからこそ、感じるものがあります。一度この地を歩いてしまうと、東京にいながらこの震災について何かコメントすることが、ただただ愚かなこととさえ感じてしまいました。この自然の脅威を前に、僕はもう何も出来ないんじゃないかと、心が折れそうでした。何を信じればいいのか、分からなくなりました。

それでも、避難所にいる子どもたちの笑顔を見ると、未来には残すべきものがあって、これ以上失うものがあってはならないと、そう感じるのです。

この写真の場所が、夜がどれほど暗いか。どんな匂いがするのか。想像力を働かせてください。

わずか半年前、去年の夏に北インド・ラダック地方を旅したとき、そこでは洪水が発生しました。5000メートルのヒマラヤに囲まれた自然豊かな土地。僕のいた地域では、1000名を超える方がこの洪水によって、濁流に流され、土砂に埋もれ、亡くなりました。そのときの洪水と今回の津波は、僕の頭の中で、重なる部分がありました。ラダックではスコップを持って土砂をかきだし復旧を手伝い、何枚かの写真を撮って帰ってきました。

僕の大好きな2つの土地で、1年の間に2度もこんな状態になるとは、思いもしなかった。今回の震災後、誰よりも早く僕に「日本は大丈夫か?」とメールを入れてくれたのは、ラダック人の友人でした。

» 「その先に見つめるもの」2010年インド・ラダック洪水 取材レポート │ もっちブログ

今回、僕が prayforjapan.jp を立ち上げて世界と日本の繋がりを少しでも可視化しようと試みたのは、そういった過去があったからだと思います。

石巻中学校にて。書籍『PRAY FOR JAPAN – 3.11 世界中が祈りはじめた日』に掲載されている「再会を喜ぶ二人」の写真に映っているご本人、エマルソンさんを訪問、本をプレゼント。彼は石巻にいる外国人教師として、米軍との通訳などボランティア活動をずっと続けられて、今もなお現地に残っている方です(他のALTの先生の多くはすでに帰国されているとのことです)

航空自衛隊松島基地。津波でヘリや飛行機などが流され被害にあいました。ひとりの市民として、自衛隊員の今回の活躍に感謝を告げて、本を5冊寄贈しました。後日いただいたメールには、「皆様の作品に接した隊員からは、称賛の言葉が続き、中には涙ぐむ者も。人間一人の力は微少ですが、 多くの人が同じ方向を向いて活動すれば困難なものはありません、正に “試練は乗り越えるためにある” です。その意味からも皆様のお仕事は、多くの人々の方向性を左右する非常に重要なものだと推察いたしております。今後とも人々の幸福のためご尽力いただけますようお願いします。」というお言葉を頂戴しました。

女川最大の避難所にも、本を10冊寄贈。また、不足しているらしい絆創膏2500枚も提供してきました。避難生活が長期化する中で、本という存在が大きな意味を持っているそうです。実は僕らが本を持参する前に、すでに本が置いてあって読まれていました。誰かが贈ってくれたそうです。ありがとうございます。

避難所の多くには「心のとしょかんプロジェクト」が設置した本のコーナーがあり、そこに新品の本が全国から贈られています。今後は長期的な視点で、心のケアなど、ソフトの面でも支援が重要になってきます。

写真は、担当編集者の舟橋さん(左)と桜井さん(右)。この二人のおかげで本が完成しました。連日の徹夜、お疲れ様でした。

『PRAY FOR JAPAN – 3.11 世界中が祈りはじめた日』は、岩手・宮城・福島・茨城の4県の高校、そして各避難所などに計1100冊(講談社から1000冊、僕から100冊)寄贈しました。(今回の行程では、200冊を手にもって避難所・高校など10箇所を訪問しました)

今回の訪問先(一部)

・航空自衛隊松島基地
・自衛隊仙台駐屯地

・専修大学石巻キャンパス
・石巻市立石巻中学校
・門脇中学校
・石巻市立女子高校
・女川総合体育館
・女川町第一保育所
・女川第一小学校
・女川第二小学校
・女川町勤労青少年センター

・紀伊國屋書店 仙台店
・ジュンク堂書店仙台ロフト店
・丸善仙台アエル店
・ヤマト屋書店 あけぼの店

同行したのは、prayforjapan.jp を運営するコアスタッフ @oppo240 @enshino と、講談社から4名の編集スタッフ。ITmediaの西尾泰三さん @makeplex が15時間近く同行取材をしてくれて、後日記事になる予定です。

誰かが偶然手にとって、少しでも希望が届けられますように。

本の公式ウェブサイト


2 Comments

  1. 本に写真を使っていただきました加藤と申します。
    少しでも携わることができ、光栄です。

    心温まる本ですものね、少しでも多くの方に読んでもらいたいですね。

  2. 私は神奈川県大和市在の還暦を過ぎた一おじさんです。
    2010年の正月にラダックへ行き、土地の雰囲気とか
    ラダッキーの優しさにすっかり魅せられました。
    レーのG.H.の御家族とも親しくなり、今回の震災でも心配されメールをいただきました。
    以前、ネット検索するうちに貴殿のWEBSITEにストライクしました。
    今回、東日本大震災に関してすばらしい本を出版され、その行動力には、ただただ頭が下がります。
    それに比べて永田町、霞が関の人の頼りなさは。

    アジアを旅してて地元の人に声をかけられます。
    コーリア チャイナ ネパリー …
    悲しいことにジャパンが出てきません。
    いろいろと日本の将来を考えると暗くなります。
    しかし貴殿の活動を考えると、長い長いトンネルの先に
    微かな出口が残っているのかなと思ってもみます。

    ますますのご活躍を楽しみにしてます。

              グット ジョブ

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