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鶴田浩之の個人ブログ | since 2005

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【ラダック2010】レーでの日々

レーには8月10日〜12日と、16日、17日に計5泊、滞在した。
13日〜15日はヌブラ谷に行っていたけど、その記事はあとで書くとしよう。

8月12日はレーの僧院で集会が行われ、多くの人々が集まった。

洪水発生から1週間となった今日、犠牲となった200名以上の人々へ祈りを捧げる儀式に参列し、
その後はチャイや食事が振舞われた。

夜、宿のキッチンを覗くとおじさんが、カレーをつくっていた。「おいしそう!」と話かけてみるも、英語があまり話せないみたいで、基本的に無愛想。でもたまに、何かの拍子で笑顔になるのが分かって、どうにかこのおじさんを笑わせようとしたものだった。

チャパティーを焼いてくれる。こうして直火で焼くらしい。綺麗に膨らんでいた。「食べたいな、食べたいな」って駄々をこねてたら、たっぷりバターを塗って、カレーと一緒にくれた。ありがとうおじさん。

表情は・・・怖い。ハリウッドで俳優になれそうだ。笑。「何歳?」って聞いたら「32歳」って答えた。謎多きおじさんだ。

GESMOレストランでの朝食。2年前もそうだが、今回、朝ごはんはほとんどGESMOで食べた。滞在中5〜6回はお世話になったと思う。ここの朝食は美味しい。オムレットが特に好きなんだ。ハニーも美味しい。この店は、ラダック人というよりも、ネパールから出稼ぎにきている10代〜20代の若い青年がお店を切り盛りしてる。だから同世代の僕らには気さくに話しかけてくれて、楽しい時間を過ごせた。

ふたりともネパール人(20歳)で、よく話してくれた。夏の間だけラダックに出稼ぎに来ている。

ラダッキのアンモと、チベット人のお母さん。2年前に訪れたときこの2人に出会って、寒くて震えてる僕を見て、温かいチャイをくれた。本当に嬉しかった。お母さんには子供がいて、2年前は小さくて抱かれてたんだけど、今は一人で走りまわってるほどに。2年経って、子供が大きくなるのを見るとなんだか微笑ましかった。これからラダックを訪れるたびに、この子の成長を楽しみにできる。

レー滞在の最終日、髪を切りにいった。僕の写真はないけど、かなりショートに切ってもらった。おかげでもみあげがスパッと切られてしまったけど、100ルピーでさっぱり出来てよかった。GESMOレストランの隣にあるこの理髪店、人気のお店(?)らしく、いつも行列ができている。あれは客なのか井戸端会議なのか。

最終日に宿で出会った二人。インドのニュース番組「DDニュース」のカメラマンとレポーターで、今回のラダックの取材のためにきているとのことだった。パナソニック製の大きなカメラと、放送前の未編集映像を見せてくれた。右がレポーターで、確かにテレビに出ている有名人。放送前の映像を見せていいのか?とか思いながらも、彼のマシンガントークに2時間くらい耳を傾けていた。

最終日にGESMOで食べたChiken Sizzler. 熱々の鉄板に載せられて,ジュージューと心地良い音を出しながら出てくる。

レー滞在の最終日(8/16)の夜、ラダックに長期滞在されており『ラダックの風息 – 空の果てで暮らした日々』著者の山本高樹さん(写真右から2番目)と一緒に食事をした。僕がもともと2年前にラダックを知り、行ったのも、山本高樹さんのブログを見た影響だ。彼とは日本では2度ほどお会いしたことがあったけど、ラダックで会うのは初めてだった。彼は洪水の時はカルナクでトレッキングをしていたそうで、豪雨で死ぬかと思ったよ、と話してくれた。

彼の著書『ラダックの風息 – 空の果てで暮らした日々』は、ラダックで暮らした日々がまとめられている。ラダックに興味を持った人は、ぜひ読んでもらいたい! また山本高樹さんのラダック滞在記ブログ『Days in ladakh』もあわせて読んでもらえたらと思う。

レーからデリーへの帰路(8/17)、朝の飛行機は、フライトが4時間も遅れた。あの何も無いレー空港で過ごす4時間は,とてもとても長い。

レーでの日々は,こんな感じだ。

2010年インド・ラダックの旅の記事一覧

「その先に見つめるもの」2010年インド・ラダック洪水 取材レポート

北インド、2010年の8月4日〜6日にかけて発生した未曾有の水害は、ラダック全域に被害の爪痕を残していた。僕は8月10日の朝、デリーから空路で現地入りしたのだが、レーの空港では、「一刻も早く帰りたい」旅行者たちが、チケットカウンターに殺到していた。数日間にわたってフライトが欠航になり、400名近い旅行者が、標高3500メートルを超えるこの辺境の土地に孤立してしまったのだ。帰ろうとする彼らとすれ違う形で、僕はラダックにやって来た。2年ぶりだ。

ラダック、その名前が好きだった。僕はしばしば名前を聴くだけで直感的にそれを好きになってしまうことがある。地名や、人の名前や、本の名前だってそう。「Ladakh」— すごく素敵な地名だった。僕にとってその音の響きは、冒険的な(でも、とても穏やかな空気の中を歩いているような)感覚を予感させた。そこの空気が好きだった。

現地入りした翌日、ラダッキの友人Tenzinとマーケットで合流する。彼とは、2年前に初めてこの土地に来たときに知り合い、友達になった。2年前、寒さで凍える旅人の僕に、カーディガンやマフラーを着せてくれて、温かいチャイを入れてくれた。僕は彼にあってすぐに「ラダックの復旧活動を手伝いたい」と申し出たところ、「明日はマーケットを閉めてチョグラムサルにいくから、一緒に行こう」と誘ってくれた。彼の友人を数人連れて、11人でチョグラムサルに向かう。この日の朝刊では、洪水による行方不明者は500名を超えたと報じていた。

レーから車で20分。チョグラムサルの街は、ほとんど瓦礫の街と化してしまっていた。メインストリートは車が一台通るスペースだけ整備されていたが、道に面している左右の店は、ガレージが破壊されて中に土砂や岩が入り込んでいる。人々がスコップを使って、土砂を掻き出している。街は壊滅的な状態ではあったが、人々はその現実を受け入れて強い意志を持っていたようだった。

僕が街や人々の写真を撮っていると、近くにいた女の子が、ちらちらとこっちを気にしているようだった。「写真を撮ってもいい?」と声をかけると、嬉しそうに応じてくれた。10歳くらいのの子供から70代の老人まで、みんなマスクをして、スコップを手に持ち、街の復旧のために働いていた。

現場にいて驚いたのは、その大量の土砂、ヒマラヤの山から流れてきた木片、そして巨大な岩。その木片やら流木を、ひとつひとつバケツリレーをして運ぶ。何時間も続くこの作業に、僕も加わった。外国人はほとんどいなかった(中国人が、一人いてその後少し話した)

炎天下、標高3500メートルの酸素の薄い高地での作業は、体力を奪われる。

人々が「1、2、3」とラダック語で掛け声を言いながら、何百キロとも推測される、巨大な流木を動かしている。10人で30分以上かけて、ようやくこの大木が動いた。洪水の凄まじさが分かる。

近くには子供たちが遊んでいた。子供たちは、ほんとうに可愛い。

「このエリアで、多くの人が死んだよ。」Tenzinは説明してくれた。僕はうなずく。

「ここはたくさんの家があったけど、ぜんぶ流されてしまったんだ。」

本来、この写真の場所は決して川ではなかった。ここには車が通れるほどの、小さな道があったらしい。洪水の影響で、なんと川ができてしまったのだ。周辺の家は、流されるか破壊されるか、土砂に埋まった。

ヒマラヤの山々から冷たい水が流れだし、その音は悲しげだった。人々はその川で、洗濯をする。

午後、僕らが土砂の掻き出しに手伝った家は、本当に悲惨なものだった。家の3分1が土砂で埋まり、その上に流木や岩が流れ込んでいる。壁は破壊され、窓は割れ、もうここに住むことはできないだろう。スコップでひたすら土砂を掻き出し、終わりのみえない作業を繰り返した。

作業の途中、僕が休憩していると、物々しく人がぞろぞろと集まってきた。「何か、あるみたいだ。」みんなが中をうかがっていた。僕はそこにいるのがとても辛かった。

お昼は炊き出しが行われ、全ての人たちに食事が振舞われた。カリフラワーの入ったカレーは本当に美味しかった。この時は人々も笑顔を見せ、リラックスした様子だった。一緒に向かった僕らは仲良くなり、冗談を交わしたり、ラダック語を教わったりした。

帰路、道が封鎖されているために迂回して、車はインダス川沿いを走る。綺麗なはずのインダス川は濁流になっていて、水が道路まで溢れ出している。洪水から数日経った時でもこの状況であるから、当時は凄まじい鉄砲水だったことが想像できる。

レーのバススタンド付近は、鉄砲水が直撃し、悲惨な状況になっていた。「まるでヒロシマ、ナガサキみたいだ」と、みんなが口を揃えて言った。バススタンド付近にあった電話局がやられ、電話やインターネットのライフラインが壊滅的になったのだ。

インド、ラダック。多くの人は、この土地の名前さえ聞いたことがないかも知れない。ラダックは冬がくるとマイナス20度にもなり、雪で峠が封鎖されるために物資の流通が困難になる。500名以上の人が亡くなり、まだ見つかっていない人もいる。当時現地に滞在していた山本高樹さんの話によると、ある子供の遺体を土砂の中からひきずり出したら、その兄弟と思われる子供たちの遺体も出てきて、その子たちが互いの手を固く握り合ったままだったらしい。その現実を前に、僕らは祈るしか無いのか。

日本に帰ってきて2週間経って、温かい布団に潜って眠りにつくとき、ふと頭をよぎる。僕の目をじっと見つめていたあの女の子は、いまどこで、何をしているのだろうか。温かいスープが、飲めているだろうか。

今回、偶然にも旅の過程でこの災害が発生し、その現場で現地の人と共に復旧活動を手伝い、そして何枚かの写真をこうして撮ってくることができた。ラダックは年間降水量が平均80mmの土地だ。下手すると東京で1〜2日に降る雨の量がそれにあたる。そんな乾燥した土地で、洪水なんて。最初聞いたとき、信じられなかった。文字通り、未曾有の災害だった。そこに19歳になった僕が、たまたま居合わせた。日本に帰ってきた今、僕にできることは何だろう。誰かに伝えることしかできないかも知れない。現地でも無力だった。この記事を通して、写真を通して、一人でも多くの人に知ってもらえたら嬉しい。

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